六華苑の歴史についてご紹介いたします。
六華苑(旧諸戸清六邸) は、山林王として知られた実業家、二代諸戸清六の新居として明治44 年に着工、大正2 年に竣工されました。
揖斐・長良川を望む約18,000 ㎡の広大な敷地に、洋館と和館、蔵などの建造物群と「池泉回遊式」庭園で構成されたこの邸宅は、一部の改修と戦災を受けたものの、創建時の姿をほぼそのままにとどめています。
その中でも特に洋館は、鹿鳴館やニコライ堂などを手がけ「日本近代建築の父」とも呼ばれたイギリス人建築家 ジョサイア・コンドルが設計し、我が国の住宅建築史上からも注目される存在です。
コンドルは25 歳で来日して以来、67 歳で没するまで70 近くの建築作品を世に送りましたが、そのほとんどは東京と神奈川県内に集中していたため、その後の関東大震災や戦災等により現存する作品は非常に少なくなっています。
桑名市は平成3 年に土地を取得し、建物は諸戸家からの寄贈を受け、整備工事の後、平成5 年に「六華苑」という名称で一般公開しました。そのうち、洋館および和館は平成9 年に国の重要文化財に指定され、他の6 棟が三重県の有形文化財に指定されています。また庭園は、平成13 年に国の名勝に指定されました。六華苑は、地方に唯一現存するコンドルの住宅作品として、注目されています。
諸戸家は、加路戸新田(現 三重県桑名郡木曽岬町)で代々庄屋をつとめていました。しかし、江戸時代末期の清九郎の代に塩の売買が失敗し、2000 両もの負債を抱えてしまいます。清九郎の長男清六は、一家で移住した桑名で、父の死後18 歳の頃から資金80 両を持って米穀業を営み、わずか3 年で負債を完済するほどの成功を収めました。明治維新の後も新政府高官や三菱財閥の知遇を得て事業を拡大しました。また次々と田畑を開墾し、山林を植林し、日本一の大地主となりました。
一方で、当時飲料水事情が悪かった桑名に私財を投じて上水道を引き、一般市民にも開放するなど、桑名のまちづくりにも貢献しました。
明治39 年、初代清六が死去すると諸戸家は2つに分けられ、家屋敷は次男清太が相続します。そして、当時早稲田の学生として東京で学んでいた四男清吾は呼び戻されて、18 歳で二代清六を襲名し家業を引き継ぎます。やがて結婚し、明治44 年、23 歳になった二代清六は、建築界の重鎮であったコンドルに設計を依頼し、この新居を完成させたのです。